長野県中央の諏訪湖を挟んで、以下の二社四宮の境内が鎮座します。
・上社 (かみしゃ)
・本宮 (ほんみや)(長野県諏訪市中洲宮山)
・前宮 (まえみや)(長野県茅野市宮川)
・下社 (しもしゃ)
・秋宮 (あきみや)(長野県諏訪郡下諏訪町武居)
・春宮 (はるみや)(長野県諏訪郡下諏訪町下ノ原)
上社は諏訪湖南岸、下社は北岸に位置し遠く離れているため、実質的には別の神社となっております。
なお「上社・下社」とあるが社格に序列はありません。
創建の年代は不明だが、日本最古の神社の1つといわれるほど古くから存在しております。
『梁塵秘抄』に「関より東の軍神、鹿島、香取、諏訪の宮」と謡われているように軍神として崇敬されました。
また中世に狩猟神事を執り行っていたことから、狩猟・漁業の守護祈願でも知られています。
社殿の四隅に御柱(おんばしら)と呼ぶ木柱が立っているほか、社殿の配置にも独特の形を備えております。
社殿は多数が重要文化財に指定されているほか、6年に一度(7年目に一度)催される御柱祭で知られています。
『古事記』・『先代旧事本紀』では、天照大神の孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の降臨に先立ち、
武甕槌命(たけみかづちのみこと)が大国主命に国譲りするように迫ったとされております。
これに対して、大国主命の次男である建御名方命が国譲りに反対し、
武甕槌命に相撲を挑んだが負けてしまい、諏訪まで逃れました。
そして、以後は諏訪から他の土地へ出ないこと、天津神の命に従うことを誓ったとされております。
説話には社を営んだことまでは記されていないが、当社の起源はこの神話にあるといわれております。
なお、この説話は『日本書紀』には記載されてはおりません。
以上はあくまでも神話の域を出ないが、これを基に土着の勢力の上に外から入った神氏によって成立したのが当社であると考えられております。
諏訪一帯の遺跡分布の密度・出土する土器の豪華さは全国でも群を抜いており、当地が繁栄していた様子がうかがわれます。
祭祀が始まった時期は不詳ですが、文献上は『日本書紀』の持統天皇5年(691年)8月に
「信濃須波」の神を祀るというのが初見となっております。
平安時代の『日本三代実録』には「建御名方富命神社」、『左経記』には「須波社」と記載されております。
また『延喜式神名帳』では「信濃国諏訪郡 南方刀美神社二座 名神大」と記載され名神大社に列しておりますが、
この二座が上社・下社を指すとされております。また、信濃国の一宮とされました。
古くから軍神として崇敬され、坂上田村麻呂が蝦夷征伐の際に戦勝祈願をしたと伝えられます。
鎌倉時代には「諏訪社」の表記が見られ、また「上宮」・「上社」の記載もあり、この頃には上社・下社に分けられておりました。
なお、治承4年(1180年)が上下社の区別が明示されている初見であります。
他の神社同様、当社も神仏習合により上社・下社に神宮寺が設けられて別当寺(神社を管理する寺)となり、
上社は普賢菩薩・下社は千手観音が本地仏とされました。
上社南方の御射山で行われた御射山祭には鎌倉を始め甲斐・信濃など周辺の武士が参加しました。
それに加えて、軍神としての武士からの崇敬や諏訪氏の鎌倉・京都への出仕により、
今日に見る諏訪信仰の全国への広まりが形成されることとなりました。
また、諏訪両社においても大祝を中心として武士団化が進み、両社間で争いも多く存在しました。
戦国時代に武田信玄が諏訪へ侵攻し、信玄によって永禄8年(1565年)から翌年にかけて上社・下社の祭祀の再興が図られました。
信玄からの崇敬は強く、戦時には「南無諏訪南宮法性上下大明神」の旗印を先頭に諏訪法性兜をかぶって出陣したと伝えられる。
江戸時代に入り、江戸幕府第3代将軍徳川家光によって上社に朱印1,000石・下社に500石が安堵されました。
また高島藩から上社50石(のち100石)・下社30石(のち60石)、会津藩主・保科正之から上社100石・下社50石が寄進されました。
明治4年(1871年)に近代社格制度において国幣中社に列し「諏訪神社」を正式名称としました。
その後、明治29年(1896年)に官幣中社、大正5年(1916年)に官幣大社と昇格いたしました。
戦後は神社本庁の別表神社の一社となり、昭和23年(1948年)から他の諏訪神社と区別する必要等により「諏訪大社」の号が用いられております。
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