茨田連衿子
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ヤマト王権時に新たに造営された難波高津宮の治水対策の目的などから、淀川に堤防を20km超にわたって築かれました。
このあたりの地方を当時「茨田」といったので、この堤防は「茨田堤」と呼ばれるようになりました。
ただ、この堤防でどうしても決壊してしまう場所が2か所あることから、それぞれに人柱が立てられることになりました。
武蔵の住人の強頸(こわくび)と河内の住人の茨田連衫子(まむたのむらじのころものこ)が人柱に選ばれたのですが、強頸は泣きながら入水していき、衫子は頓知で死を免れたという言い伝えがあります。
茨田連衿子の別名
茨田連衿子(まむたのむらじのころものこ)
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